インフルエンザと同じ。そんな見方もある。
自粛していて閑散としている、自粛せずに群れている、過度である、楽観しすぎている両極端の表現で揺れるメディアや口コミのなか、
過去功績を残した人がなくられてニュースになることは今までもまま見るが、数日前まで現役で見てた人でまだ老衰とはいえな年齢で亡くなられたという現実は両極端のそれぞれの思惑のあるニュースとは一線を画し今がいつもと違った状況だと率直に思い知らされる。
行動が自己責任のようでいて医療関係者、今も社会を支えている人たちにも大きな影響与える。
自分が外出を常にしなければいけない仕事であった場合。部屋に閉じこもり感染を恐れる人を軟弱だと思ったかもしれない。
実はひとつの大きな問題に直面しつつも、意外とその景色は人によって全然違うのだろう。
いつの時代にもいえることのようで、
経験した阪神大震災や震源地は遠いものの東京での東日本大震災ではもっと無我夢中に生きることに助け合うことに必死だった。
家が倒壊し、救助はもちろん救急車も足りない、余震が続き火災で消防車の音も常に鳴り響いていた。
瓦礫を近所の男性であつまって叫び、ひたすら崩れた建物の山をかき分けた。
見つかった人たちが運ばれていく、覆われた赤く染まった布を見送るも、ご家族を失った方と家をなくされた方が自分の玄関の壁に腕と顔をあてがい大声で泣き叫んでいた。
一緒になって瓦礫を退かしていた男性陣は寄り添う人、あえて背けるひと、女性みな近くに集まりつつも暗い顔で下を向いた。
近所の方とはいえ当日まで知らなかった方で自分の家の玄関で、大人の男性が大声で泣かれるのも、家の床がガラスでうめつくされるのも地震のあとは全てが非日常だった。震度5以上の余震が続くも当時は余震という保証はない。当時忍たま乱太郎で学んだ精神統一のための「臨兵闘者皆陣列在前」をつよくつよく自分とまた家を支えるつもりで祈りすがるように心の中でずっと唱えていた。物理的ではなくてもみな震えてすごした。
いくつもの家が倒れ火災の煙が目に見えるところでいくつもたち。友人の住んでるマンションが倒壊したという話も入ってくる。
小学校の校庭は大きなひび割れがいくつも横断し、ともだちたちとその家族とまた会えた。生きていることを互いに確かめ合う瞬間は今思えば不安を忘れた時だった。
いつも当たり前のようにあっていた人たちとまたその後に会えた。ただそれだけで湧き上がる感動と歓びがあった。
書き始めて最初は背中いてーとかいかに体が鈍ってて動かしてない自慢するかとか考えずに書こうと思っていて、その時の話を書くとは自分でも思わなかった。
今を理解するのに掴みかねる感覚や、視点の違いによってうまれる世界観の違いを感じる。
全力で生き助け合った。
もしかするといがみ合えたりする余力や余裕があってそれ自体はまだ本当の圧倒的な環境変化と比べると幸せといえるのかもしれない。
今もその時の大人たちのように協力して助け合ってる人が多いんとちゃうかな。
少数の悪やデマを尊重しすぎ。
最前線で戦う人戦わざるを得ない人、病と戦う人、直接的・副次的に影響を受け困難に直面し戦う人たち。
その他にあてはまる1人のぼやき。
個別にいえばこの状況によって新たに生まれた面白い局面もある。
運動不足の体の変化のほか、
下手なりに体と頭とメンタルを使って全力で遊べたスポーツがないと「全力」の吐き出し口がない。
それは仕事や勉学に向ければいいものをそうはならない。それは慣れか言い訳か逃げか。
インドアで平気やけど、ての届く液晶画面以外から実物で心底から驚ける・感動できるものと巡り合いたいなあとも思いだしたこの頃。
情報書くより何かきゃいいかわからん、感情を言葉でどう表現するか、無理やり表現させてみるってのも不格好になりやすいけど大事やなぁ。
そんな経過の記録。