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ジムで尊敬できた人の決定的違い。

By 2020年10月9日No Comments

ある日地元の駅の階段をホームへ向かって小走りに降りて行った時のこと。

降りはじめで向いの登りはじめの方で階段を上がるのが大変そう男性がいて、片手に手すりを持ち膝を伸ばしたまま回すようにして一段一段を上がる。

正直に感じたのは存在に気づいて動作を見てると義足をつけてらっしゃる方かな?ともおもって注意を向けた。

すれ違いに気づいたのはその方は何度かお会いし話たことのある方だった。

階段を上がるのが大変そうで暑い夏、舌をむき滝のように汗を落としながら階段だけを見て上る様子。

こちらは気づいたものの、いろいろと理由をつけて声はかけずに階段を降りて目の前の電車を追った。

結局電車には乗れず階段に戻り電車を乗り降りする群衆はとっくに消えて1人階段を上がる姿を何があったのかや何か手伝うことがないを

考えながら彼から見えない後ろから目で追った。

 

その方は自分がジムで働いていた時に何ヶ月に一回や時期的に数回と通われる方で、ボディビル業界でトップクラスで戦ってきた方。

単に筋肉痛だとかであれば良いのだが、長年自分を磨き続けている人にとっての怪我はアスリートとしても意味が大きい。

見たこちらもショックを受け気安く声がかけられなかったのが正直なところ。

考えていると久々のジムのハードトレーナーを見て、ジムで学んだかっこよさを思い出した。

 

彼以外にも何人かそのジムに長年通っていて誰もが初心者から経験者まで皆がすごいと思える体つきの人が数人いた。

でその人たちは大きいとか重い重量が扱えるということだけでなく、締まっていて筋肉のボコボコがすごい。美しさともいわれる部分。

ここがすごい人たちは常に自問自答を続けていないと難しい。

というのも持つ重りを変えたとして重要なのは自分の何処に負荷が掛かっているか、本当に正しいフォームか、もっと効かせられないかを問い続ける。

信念の中にも常に奢らず自己否定を続け、真理を追求し続ける。ぶつかった課題にもトレーニングだけでなく栄養学や解剖学からいろんな知識を総動員する。

非常に内向的な作業されていて(またそれ自体を楽しんでいる)、誇りを自ら育て獲得している。

長年の積み重ねで獲得してる人たちは、自らを鍛えるためには単にフォームや重り選びの止まらない。

スタッフや環境、他のお客さんなどの周りの協力や理解を得ることも大事なのだろうマナーからして違う。

若すぎる学生や単に力自慢の人たちがちょうど見えづらくなる点。

 

で、決定的違いかなと感じるのは。

「他人の悪口をいわない」

自分に厳しくあれば目的は達成できるのとある程度の自身を獲得してしまっているので他人を陰でこそこそ批判し続けない。

長年ジムに通う鍛え上げた人でも他人の批判に勤しむ人はそこそこいる。

これは仕方のないところもある。なぜかというとトレーニングの目的はそれぞれであるので批評は立場や視点によっていくらでもできてしまうのだ。

拘りからくるもので、意見や考え方が違うのはあって普通だけれど、その話またゆうてる。みたいな同じ内容で繰り返される批判、陰口がある。

言いたくて仕方なくなってしまっているのだ。

そんな自分軸でのみ相手を当てはめて批判する人の多くが本当に求めているもの。

「説明することで自己承認欲求を満たしたい。」

軽めの重りを扱ってる人で外でめちゃめちゃ早い長期ランナーもいるのに単一の優越感に入り浸りたい。

独自の工夫してる人や人と違うことをしてると不安にもなるし、気持ちはよくわかる。

他人と比較した重りに駆られてフォームがめちゃくちゃに、稼働範囲が劇狭になったり。

実は自分が一番それを知っている場合。見て見ぬ振りしてる場合に本当の自己肯定感が得られず。

自分を守るために批判し続ける人。マウティングし続ける人。

埋められない何かを人を批判することで埋める。けどそのアプローチだと見ててどうも難しそう。

なのに自分もやってしまう。大なり小なりあると感情としては皆の中にも存在するものだと思う。

 

真実の自分と向き合う覚悟のある人もしくは努力されている人の発言は芯を食ってる言葉に力があると感じやすい。

ジムの話ではあるが女性でもマインドセットでああかっこええなあ。ともう人がいた。

 

自己肯定感を自らの力で獲得する人の強さ。

逆に言えば自己肯定感の低いと核心的な課題には触れず何かで埋めようとする働きがあることも学んだ。

この自己肯定感の低さをついて利用した宗教とか犯罪行為とか商法とかビジネスが世の中にいっぱいあるのも徐々にわかってきた。

往々にして依存性を高める仕組みになっている。

少し悲しいのは人を批判することでも他人から認められることでも埋められずに、

自らの内なる声を蓋することに必死になっているということ。

カルト宗教運営の重要な点に問題を根本的に解決させない、問題の原因から目を背けさせて問題を永遠に抱え続けさせること。

自らの目を背けた隙間は本人が思っているより大きい。社会を観察する時にも有効だと思う。

 

「高重量・広範囲」がモットーの階段ですれ違った方のトレーニングはまさに「全身全霊」が当てはまる。

演技の余地のないフォームと重量、メンタリティ、勤務中で見ていてもお金払っても良いレベルで迫力そのものが違った。

精神で常に肉体を凌駕しようとする祈祷とかそういうレベルに感じている。

素人の自分が見てもクオリティーや覚悟からして違う圧倒されるものがあった。

途中お声がけしたとしてもトレーニング中とは全く別人で誰に対しても優しく柔和に話される。

息子を想い、他人に優しい。ジムでしかお会いしたことがなく一面しか知らないがそれでも言葉の節々に飾らない芯を感じる。

普段謙遜されていても「すごいですね」と言われると「それだけの努力をしてますから」といつも答えていた。

即答と言葉に「自分」を偽ってないのを感じていた。

ああこういう人が「漢」と呼ばれる1人なんだろうなと。

階段をすれ違った後に、電車に乗って移動する途中ジムで考え学んだことやその方のことを思い出していた。

 

。。いや。

自分が同じ状況なら、それどころかちょっと疲れただけで、エレベーターを使っていたはず。

その駅にはエレベーターがあってエスカレーターがない。

もしかしたらあえて使ってない可能性はないか。

その方の言動を思い出してる内にその説に至った。

私が目で追ったのは怪我をした失意のアスリートではなく、

変わらない漢の背中だったのかもしれないなと思い直している。