自分の考えの軸は体験とまた他人から得られる話も大きかったりする。
この話は今までの自分の考えを変えてまた違った角度から同じ世の中を再発見できそうな大事な話やなと思っている。
これもまた、以前にも触れた『その個性が強みとでるか弱みとでるかは「環境」による。』染色体などを学生のころから今も研究している友人の話で、この話もまた和歌山海からの帰りの道中、車の中の話。今の自分の考え方のひとつの軸やヒントになっている。
人や生物にとっての強みとは環境による。というのが彼の生物学的な常識で、子孫繁栄をするためにも外的環境の変化を生き抜くには種が単一のものだと、ある環境では生き残れてもその前提が覆った場合に全滅を意味するため、多様性のあるポートフォリオを組んでいく必要がある。これは資産運用している人にも身近な話かもしれない。
この多様性とは種の持つ機能であって、例えば同質化の強い日本人が環境の変化が苦手(かならずしもそうだとは自分は思わないが)、差異を優位性のみならず劣等生として上下関係を作るのも特定の環境下におけるもので、特に人間の社会的価値観によるものだとたちが悪い。人間社会の生み出した人道的アプローチで理想論を語るよりも、トレーニングが人間の生存原理を利用した反射作用なのだと理解し利用するように、生物学的に自分たちの命の成り立ちを学ぶ方が幾分か教育にも良いし、より自分たち人間についての正確な理解ができるのではないか、と彼の話を聞いてから常々そう考えるようになった。
少なくとも自分にとって差異への尊重する思いは以前よりも彼の話をきっかけにより必要性を感じている。
で、今回はブログの題名の話について
これはその友人の車の中での会話のセリフ。
「ダーウィンの進化論って世間的には常識やしそう習ったやん。」
「でも今研究者の間ではそれは常識ではないねん。」はぁ。。
で、題名。
言われて度肝を抜かれて。頭の中でいくつかセリフが錯綜したのを覚えている。
(なんかこいつ言いよったぞ。断言したぞ?)
(ハハハ。そら流石に言いすぎやろ。みんなそうやって習ってきてん。それ以外に何があるねん。)
(ん?ドヤ顔か?それは。ちょっとかましてきたか。)
(。。まじでゆうてんのか?)
でほんまか?って思いと、ちょっといいすぎたやろ言い直すチャンスやったんで。
って思いで聞き直す。どうやらしっかりと意志と根拠があっての発言らしい。
どやねん。聞いたろうやないかい。
自分の中での進化とは成長であり、
あの猿の腰がだんだん起きて最後の方槍持ったり二足歩行になって最後スーツ着て歩いてるやつを思い浮かべる。
能力的に「優れている」ものであって、エラーという言葉は想起されない。
んで彼は、
「ほんじゃあ。例えば人間のルーツってなんやったといわれてる?」「猿やろ。」「その前。」
で、時々でる相手の問題に答えつつ(その方が個人的にもおもろい)、
はぁ。猿のもっと前の話ね。
でその例では、生物のルーツは最初海だとする。
すると、
「陸に上がったやつがエラーやねん。」
「考えてる進化は『最適化』のことをイメージしてるんやと思うけど、海の中での環境の変化に対応するなら泳ぎがもっと速くなるだとか。えら呼吸でも酸素をより多く取り入れるようになったりだとかであって、海という環境の中でより生きやすくするはずやん。」
「たしかに。」
「実際その多く大半が今も海に生きているけど、そのうちのいくつかが何を思ったのか陸に上がり始めた。」
「ほんまやな。」ビターンと陸にあがってしまった魚とか生き物を想像する。多分そうではない。
おかしいわ。一応海水浴の経験があるので海も陸もわかる身としては、海で生きてりゃいいのに、天敵などのやむにやまれない理由があったのかもしれないが、海で進化したやつがなんで陸あがるねん。と思う。だいぶいかれてる。
その進化論では説明しきれない部分をこのエラー「突然変異」が今の進化論の補足的役割を担っているらしい。
本人が望むと望まないに関わらず、意志があったかないかに関わらず私たちの差異にはこのように遺伝子的に大きな役割をもっている場合がある。というか彼曰くはそのように設定されている。という。
ふとマトリックスという映画が電子的な世界を描きつつも根底にこのような生物学的な捉え方もあったのだなあと感慨深い。
なるほどなぁ。
別の日に、子どもの頃不思議だったことを思い出せたので彼に聞いてみる。
「あの生物で毒持つやつあるやん。植物とか虫とか。あと色を派手にして天敵が警戒するような色になったりするやつ。あれってなんで自分の中に毒をもつようなことをするわけ。しかも自分ではない天敵がこの毒とか模様が苦手やってわかるん。」
という進化の仕方に疑問を投げると彼は即答で、
「たまたまそういう性質のやつが結果的に生き残っただけ。」
予想だにせぬ角度。天敵おるから毒作るぞってんじゃなくて、毒らしきものをもってたものが生き残って行く確率が高くてその遺伝が強くなる。という順序。これもまた思ってた進化が作られた優秀性に限らず、多様性からくる偶然にたまたま生まれ生き残ってるって話。
生物学で関係のない分野で思い出したのはビジネスシーンで使われる「イノベーション」という言葉について、
ビジネスちょっと好きって人ならだれでも知ってる内容やけど一応説明しておくと(適当に)
イノベーションとは持続的技術革新といって商品の機能を上げ続ける作業がある。例えば当時画期的だった部屋まるまる埋まってしまうような大きいコンピューターが生まれた。いまでいうスーパーコンピューター的な位置で研究機関や大きな組織での利用を想定されて作られそのうちにどんどんその演算能力を競うように高めていった。てな具合。
で、もうひとつイノベーションの種類に「破壊的イノベーション」がある。
これは大きなスーパーコンピューターをつくって競っているうちに、はるかに廉価でシンプルな機能。比べた場合にはあくまで劣化版だった、小さいコンピューター。個人利用を想定されたパーソナルコンピューターが密かに生まれる。
両方ともに全力で性能向上をしているもんだから天と地ほどあった埋まらない差が、パーソナルコンピューターのその安さと手軽さから需要と供給が増え、量産することでいつしか性能としてもビジネスのマーケットとしても劣っていたはずの商品がコンピューターの市場を一気に奪い去った。しかも大きなコンピューターを作っていた人たちは潤沢な資金と人材を技術革新に注ぐことについては欠かさずに間違いなく行なっていたにも関わらず。
で、当時のコンピューター市場はそのパソコン企業らにとってかわり多くが撤退。そして、パソコンがデスクトップ市場からノートパソコン市場に、そしてひと昔前に単なる電話であり、少しの文字しか送れないはずの携帯が今はスマホとなって、普及率と利用率ではパソコンを圧倒する。
今でいえば、VRやディープラーニングなどの機械学習やロボット、IOT関連、ビットコインなどの仮想通貨や取引所の仕組みがそれにあたるかもしれないし、今はまだみんながばかばかしくて取り合ってないものありえる。(適当)
突然変異はビジネスにも破壊的イノベーションにその片鱗を見せているという考え。
研究系でノーベル賞とってる人でもだいたい研究内容とちがったり研究中のミスやハプニングで発見してるのも勝手に耳にするし、今自分たちの生活を支えてる多くの発明も同じらしい。綺麗だと思う花や孔雀の羽もきっとエラー。
ちなみに多様性を一方的に礼賛にしているわけではなくて、セールスアニマルのような会社や組織で限られた行動指針をいかにやりきるかってことでいえば多様性よりも同一性をもっていた方がやりやすいはず。結局組織でもそうなっていくように指導やインセンティブをつけるので、採用広告などで多様性を謳えば先進性がありそうな雰囲気はあるが良し悪しというのが理解できる。
シリコンバレーでは起業して失敗してもその評価はむしろ高いうんぬん。。みたいな説明どこにでもシリコンバレーの起業文化と日本との違いに多くの人が触れてたけど、多くはユニコーン企業や上場企業の成功事例の創出がその解決策として口を揃えて説明される。でも例えば今回のこの話をあてはめてみれば、環境が変化する中で日本の経済圏という生態系の生存、若しくは繁栄、または新陳代謝していくためにも新しいイノベーションを市場を創ろうと、何か社会的課題に取り組もうとしていて、それが報われると報われないと関係なく起業している人たちの存在(大企業的発想でいえばエラー)が本当に社会的に地位の低いものなんやろうか。
都心の始発駅で、だまってスーツきた人たちが立ち止まれるスペースもなく幾ホームにも渡って静かに電車を待っていた。大声で明るい声で独り言を叫んでる若い男性がいて、皆反応せずに、でも近くの人は関わりたくなくて目を合わせず無表情に徹しつつも0.01ミリでも遠ざかりたいようなそんな不自然さと緊張感を漂わせつつ。1人だけの騒ぎ声が際立って異常に見えた。でも電車を待ってしばらく間をあけると彼がいないホームを想像したときにぞっとした。当時はまた別の感想があったんやけど、これも今回のに当てはめていえば人間社会にとって整理整頓されている姿も自然社会でいえば異常なのかもなあと。
あくまで一例ですが、この見方で納得したり発見できるこもあり、差異やエラー、特別変異などを少しネガティブに捉えがちだったのでどちらでもない、若しくは良いところを探すのもおもろそうやなあと思った話ー。ではー。