大学では法学部に通い
その授業でなんやこれ。おもろいな。と思ったことがある。
ニルス・クリスティ著「人が人を裁くとき」という本を教材にあつかった授業のこと。
法律ってーとこんな法律があって、こんな風に運営されて判例があって。みたいな授業が各法の事例で進められる他に、
メディアにも取り上げられて有名なマイケル・サンデルの法哲学であったりこの本も当初話題になっていた裁判員制度や調停制度、市民の法への参加について。など社会学的視点から学ぶ授業機会もあった。
この本の著者はもともと犯罪の意味を追い、その現象、存在、言葉の表現の意図、条件について研究してきた人とのこと。
最初読み間違えかなとおもった箇所があった。
犯罪者となった公園の男
アパートに囲まれた小さな公園を舞台の話。心地の良さげな公園の描写など細かにあるが、はしょると公園で酔っ払った男性が公園にいる少年たちに自分のいちもつをみせようとするシーン。
なにゆうてんねんこれ。
スウェーデン人類学者からも様々な情報提供を受け著者が組み立てた事件らしい。
この情景を二つの視点で眺めて解説する。
ひとつは公園を囲むアパートのひとつ現代風の建物で鍵もエレベーターも何もかもうまく成り立っている「完成住宅」日本人の住むアパートはほとんどがこちらだと思う。
でもうひとつは建築業者が破産しエレベーターは動かず玄関のドアもない、破産前に支払いを済ませてしまった住民らは欠陥に囲まれた住居で建物業者を相手取り一致団結をせざるを得なかった「欠陥住宅」からの視点。こちらたいへんな共同作業を経て親睦が深まっている状態。
して、その公園の茂みに少年らを集めた男性をみて欠陥住宅の住民は
その男性のをアンナの息子のペーターだとしってる。変わっているけれど親切な人間だということも知ってる。
いっぽう完成住宅の住民は彼を知らない。見知らぬ男がいちもつを少年らの前で露出しているのだ、上品な住民は警察に通報し一件の公然わいせつ罪、重大な性犯罪を未然に防いだことになる。
これは完成住宅の良心的なたったひとつの選択肢しかなかった。
少年らの期待によって好奇心に応えるためにもズボンを脱いだという設定と欠陥住宅の人らにその理解があったというストーリーが法律の勉強中に出てきたので驚いたが、自分の思春期の学生時代の友人や先輩の下世話な話や行動を思い返せばそういうものかと、すぐに納得できた。
なるほどなあ。
二つを比べると完成住宅住民の狭量さが目立つが、知らない人間が公然とズボンを下ろしているシーンは通報ものだ、その事実でも犯罪は成り立つので間違ってへんなぁ。
身内ノリで少年らの好奇心に先輩として応じたペーターの一幕とその経緯を知るよしもない社会で性犯罪者になってしまう二つの視点。
「完成住宅」に住む現代人の生活を自分自身も求めている。社会人になって都心で暮らした際も厚さ数センチの壁隣にいる住民たちにはできるだけ会いたくなかった。しそれが自分が変なことにも巻き込まれないための「自衛」だと思っている。
けれどこの事実からは情報から絶縁された状態によって問題行為が犯罪となる。という環境に自ら身を置く、または環境を作っているともとれる。
軒のある風通しの良い風情のある町や村に住んでいた昔の日本人は今都会でカプセルホテルのようなマンションで、毎日通勤電車の中で全く知らない人に密着して移動し少しでも心の距離をとりたいと願っている。
一番最近のとりあげられたニュースでいえば、公園のベンチに座っていただけの男性が通報されてしまったのも似た状況ちゃうやろうか。
もうひとつ発見は。
同じ行為をしていながら、その観察者(通報者)にとって犯罪かどうかが変わってしまう。
行為によって犯罪が成り立つのではなく人間の価値観によっても大きくかわる。
何が犯罪行為かもその定義は人間によってなされている。
ということ。
書いてて当たり前すぎることゆうてんなあと思うんやけどそれでも当時は犯罪や刑罰とは「決まりきったもの」「絶対的なもの」という考えでいた。犯罪者は悪だということ、犯罪とはその行為そのものである。という考え方でいるとそれを観察する視点によっても変わり得るということや、犯罪という行為を定義づける人間(達)によって簡単に変わりうるしあやふやなものだなと思ったことが当時の自分には驚きだった。
また、便利なはずの完成住宅の不干渉によって互いの理解に欠けてしまうことがかえって互いに首を絞めあってしまいかねないこと。
最近のことでいえば先にふれたベンチの公園に座ってただけの人が通報されるし、老害という言葉をよく目にする機会が増えているのも核家族が当たり前になり世代間の断絶によって起きているのかなと思ったりする。
この正義の定義や分断は私たちの社会のポテンシャルを阻む毒薬にもなるし、それを悪用しようとする人がいてもおかしくない。特に私たちが見ている社会とは実際のこの目を通したものよりもスマホやメディアを通じて成り立っている要素が多い。その情報世界では当事者以外の人やbotが参加して炎上やその闘争にお金を払ってでも起こし大きくしようとする人が実際にいる。世論を作ること自体は今も昔も変わらない。ただいまは画像でみる美人は加工アプリの作品だったり、情報社会は個人情報から金融まで全てをデータで行い、バーチャルリアリティの臨場感は現実世界との界がわからなくなってきている世界。
流されること自体はべつにそこまでわるいとおもってないけれど、本人が知らず望まず利用されてるのはおもしろくない。
このテーマに触れて現状理解や考え方を知ることにも一定効果が得られるのではと思うのは、利用する側からすれば解決すべき課題だとも気づかせないことが重要だから。いつのまにか聞こえの良いルールや規制によって肩身の狭い思いをしていくことになる、すこーし暗くなってきて許容範囲が小さくなってる時にこそ付け込んでくる。ちょくちょく目について気になってしまったのでこのことに触れたくなった。
一番の興味は完全には不可能だとしても雑音を払い除け各々で重要だと思えることに取り組み戦える人が増えたら、周りの善き優秀な人たちを見てると、実はこの国はポテンシャルが想像もできないほどすごいんじゃないかということ。
今回の本の例え話を探す時に他に面白いなと思った訳者解題の箇所が、
『社会に紛争があることは個人が絶対的権力に抑圧されることなく自由に思考し自由に行動していることの証しであるとし、紛争がある社会を正常と考える』と紛争を好まない日本との比較に触れた箇所を見て、パリや香港のデモ、デモ自体が許されない国の存在を思い浮かべた。その時に自分は彼らのように立ち上がれるのか、立ち上がるべき重要な事柄をその時に認識できるのか疑問が芽生えたが。実際にデモが手段になり得るのかさえイメージが持てずにいるのだけれど、手段がデモかどうかは別としてなんとかして自分で守ったり勝ち取っていくものなんだろうなと考えさせられた。